民生用製品技術のライセンス提供への決断

ドルビー氏は、アメリカのオーディオ界の先達の一人で当時KLHリサーチ・アンド・デベロップメント(家庭用ハイファイ機器メーカー)の社長であったヘンリー・クロス氏に勧められて、民生用のノイズリダクションシステムを開発することにしました。 その結果、1968年にはドルビーBタイプNR技術が開発されました。 これは新しい原理に基づくもので、Aタイプのように低レベルの信号のみを処理するものですが、信号を一定の複数バンドに分割する代わりに、単一のスライド式バンドによる圧縮を開発して、コストを抑えることに成功しました。 このスライディングバンドの採用により、 Aタイプ同様音質面での副作用なく、民生用テープレコーダーで一番ノイズが多くなる高周波帯域のヒスノイズに対して雑音低減が行えるようになりました。

ドルビーBタイプNRは、Aタイプのような相補的圧縮・拡張システムで、録音されるときにはエンコードが、再生のときにデコードが必要となります。 従って、これを家庭用製品の中に組み込む必要がありました。 Bタイプシステムの開発がほぼ完了した頃、ドルビー氏は重大な決断を行いました。 それはドルビーラボラトリーズが生産するのは業務用オーディオ製品のみとし、民生用製品に関しては適切な技術をライセンス許諾の形で他社に提供することにしようというものでした。 これは極めて重要な決断でしたが、その後これに続いてまた同等に大きな決断がありました。

ドルビーとコンパクトカセット

1970年まで継続する独占ライセンス下で、ドルビーBタイプNRを使って作られた最初の民生用製品は、1968年に KLHが発売したオープンリールのテープレコーダーでした。 この製品は優れた性能を備えていましたが、オープンリール形式であったため、結局消費者にはそれほど広く受け入れられませんでした。 ドルビー氏は当時すでに、テープはもっと使いやすいカートリッジ形態のものにすべきだと気付いていました。

KLHモデル40 KLHモデル40オープンリールレコーダー。 ドルビーBタイプNRが組み込まれた最初の民生用ライセンス製品(1968年)。

ドルビー氏と彼のスタッフはその頃出回っていたカートリッジ式のテープを基に研究を進め、シャツのポケットに入る程度の小型カートリッジに2つのリールを入れたコンパクトカセットに大きな可能性があるのではないかと考えるようになりました。 数年前にメモ記録用としてフィリップス社から発表されていたコンパクトカセットには、当時高忠実性はあまり期待されていませんでした。

1/8インチという狭いテープ幅、毎秒4.75cm/sという遅い録音速度であったことからカセットの忠実度は、スピードの安定性、周波数特性、バックグランドノイズ(ヒス)という3点で性能限界がありました。 スピードの安定性と周波数特性という点では改善が可能で、テープのドライブ機構、ヘッド、テープ組成を良くすることにより改善されつつありました。 しかし、ノイズの解消はドルビーBタイプNR技術が開発されるまでは対処できない問題となっていました。 ドルビーラボラトリーズは最良のカセットデッキにドルビーB技術を組み合わせることにより、LPレコードに対抗できるような高忠実度を持つカセット録音技術が得られることを実証しました。

ドルビーBタイプNR技術を導入したフィリップスタイプのカセットの可能性を信じて、ドルビーラボラトリーズはドルビーB技術のライセンスを世界のテープレコーダーメーカーに提供することにしました。 この技術のライセンスを提供するという決断は、ドルビーのライセンス許諾プログラム確立という点で第2の重要な決断となりました。 ライセンシーとして見れば、特殊ではあるものの普及の可能性もある応用分野での高度な開発に対するライセンスでした。

ドルビーのライセンス許諾活動開始

1970年の夏、ドルビーBタイプNRが採用された最初のカセットレコーダーがアドベント、フィッシャー、ハーマンカードンから発表されました。 これらは全て当時の日本のOEM専門メーカー、ナカミチにより作られたものです。 これらの製品に使われたコンセプトはすぐに高く評価され、さらに4つのメーカーが1970年末までにライセンシーとなりました。 ドルビーは早い時期に必要な専門技術を身につけ、アジアのメーカーとも仕事を進めて行けるようになりました。 こうしたアジアメーカーとの事業はドルビーのライセンス許諾プログラムを成功させる上で非常に重要なものでした。 現在ドルビーは東京、上海、北京にそのライセンス許諾事務所を持ち、多くのアジアのライセンシーとの間で事業が進められています。

ハーマンカードン CAD-5 ドルビーBNRを搭載した最初のカセットデッキの1つ。 ハーマンカードン CAD-5 (1970年)

ライセンシーの数が増えてきたため1971年に入ってドルビーは、特許、商標、ノウハウに関する権利、さらに四半期ごとのドルビー回路販売数に基づいた新しいロイヤルティー体制に関して、簡単なライセンス契約を導入することにしました。 このプログラムは現在のドルビーライセンス許諾の基盤となっています。 ロイヤルティーが妥当な価格だったことが、ドルビーラボラトリーズの技術およびノウハウの採用を求める方向に民生用エレクトロニクスメーカーを向かわせました。 またドルビー自体が民生用製品を作ってメーカーと競争するようなことはないので、ドルビーとライセンシーとの間には良い関係が築かれていきました。

市場における中間あるいは末端に近いユーザーのための製品を作る会社もライセンシーとなってきたため、品質基準を正式に規定しそれを実施する必要性が高まってきました。 そこでドルビー社はライセンシー製品用に正式な品質管理プログラムを作りました。 これにより標準性能に達していない製品が市場に出回ることが防げるようになり、ドルビー技術、ドルビー商標の入った製品の品質イメージを高く維持できるようになりました。 現在ドルビーラボラトリーズは、毎年何百ものライセンス製品サンプルの認証試験を行っています。

シグネティクスのBタイプIC シグネティクスのBタイプICによりドルビーBNRの民生用製品への導入が大幅に簡略化される(1973年)。 以来、新しいドルビー民生用製品技術は専用ICの形でライセンシーに提供。

もう1つのドルビーライセンス許諾プログラムに関する重要な出来事は1971年のことです。 ドルビーとシグネティクス社はドルビーBタイプ回路の重要エレメントとなる専用集積回路(IC)の開発で提携しました。 最初のICおよびそれに続くものはドルビー技術の実施を大きく簡素化させ、ドルビー技術が使われる製品域を広め、潜在的な市場を大幅に広げました。 現在、ライセンシーはドルビーとの共同開発により作られたアナログ、デジタル両方の種々のドルビー技術ICをその製品に使用できるようになっています。 これらのIC開発コストはメーカー負担となっていますが、ドルビーは ICそのものに関してはロイヤルティーを請求していません。 また、開発時の支援も無料で行っています。 ロイヤルティー収入はドルビーはICが組み込まれた民生用製品からのみ得ています。